青の古鏡

見ないことこそ、見ることに通じる。
それを忘れるな。


「物が見える」ということは非常に便利なことである。しかし、「物が見える」ということが非常に不便だと思ったこともある。人間にある感覚…視覚、味覚、嗅覚、痛覚、聴覚のうち、視覚こそが最大のセンサーである。視覚が最も発達した為に、視覚こそが対象を判断する第1義となってしまった。当然といえば当然だが、ゆえに、視覚だけで物事の善し悪しを計り、他の感覚や内面を探ろうとすることが困難となってしまったのだ。
 逆に、視覚に障害を負ってしまった人達(政治的に正しく表現すれば「視覚にチャレンジされている人達」)の、視覚以外の感覚には素晴らしいものがあると聞く。たりない物を他の物で補おうとする力が働くのだという(もちろん、その為に多大な訓練を重ねていくことも忘れてはならないが)。

 軍隊の司令官。これもまた、物事を「見ない」ことで物事を「見る」ことに長ける人物と言える。彼が「見る」のは、作戦の進め方や敵の動きといった、戦略的な物である。前線での動きや戦い方などは見ない。現地の部隊に任さればいい。よく兵隊の上級職は『人の命を何だと思っているんだ!』と文句をいわれるが、それは戦術と戦略の違いなのだから、至極当然。見る大きさが違うのだ。

 では、『見ない』ことで『見る』とはいかなることだろうか?
 目で「見ない」。心で「観る」。視覚に囚われず、感覚と精神の全てを使い、物事の本質を「見抜く」力。見た目の現況に左右されない、本当に見えるべき物。無垢と反転を司る古鏡座の魔道師たちならば、たやすく物事の「裏」を感じることができるだろう。氾濫する情報から、真に必要な物を取捨選択し(あるいは、必要な物を捨て去り)、一体何が行われているのか?何をしようとしているのか?それを拾い上げる能力。魔道師学院で学ぶ若年の徒に課せられる基本である。
 だが、「見ない」=「見る」には両面の危険もある。「見る」ことで物事の本質を掴むのも、「見ない」ことで物事の迫真に迫るのも、正しき結果を導くには致らないことがある。『世界の』ではない。『個人の』正しき結果、である。目的を探求した結果(探求しない結果)、探求者が必要な結果を得ることができたか?そして探求者にいかなる結果をもたらしたか?それは誰にも分からないのだ。

* * *

「…これが、俺が探していた場所の成れの果てなのか?」
強風でやせこけた空の下、焦燥しきった顔の男が崩れ落ちた。
男の眼下には、どす黒い水に塗りたくられた谷が広がっていた。
10年前、『白き谷』と呼ばれていた光景が、そこにあった。
「…馬鹿な!何があった…」
親友が連れ去られたという『白き谷』を求めた傭兵。
10年の時を経て、ようやくたどり着いたのは、
谷を覆っていたという「白い力」をことごとく塗りつぶした黒い水だった。
「知らなかったのか」
「!」
どこからか、傭兵の周囲を男の声が取り囲んでいる。
「ここが『開放の谷』だったのを知らなかったのか」
「開放の谷だと!?」
とっさに後ろを向き、剣を構える。傭兵の本能だ。だが、どこにも姿はない。
「そうだ。ここは肉体から精神を開放するために活動していた『開放教団』の住家だったのだ。3年前、敵対する教団に滅ぼされ、黒く封印されて今に至る」
「…その教団はどこだ?」
「知らないのか?いや、知らない訳がないな。奴等は、額に真紅の十字を描いていた。…力を求めた、今のお前のようにな」

見ないことこそ、見ることに通じる。
それを忘れるな。


ps.この「色星の語り部」は7/24に某日刊TRPG情報サイトで紹介されたのですが、更新された直後には、紹介文にサイトの場所とリンクがついていませんでした。おお、これぞ正しく「見ないことこそ見ること」だ!
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夢の終わり