緑の牧人

風は我が子らを運ぶ。
土は我が思いを刻む。


 昼なお黒い森の中。
 小さな泉のそばに佇む一件のあばら屋。
 朝。
 ベッドから、一人の痩せた男が起き上がってきた。
 後ろでまとめただけの長い髪には、樹木の緑が所々に混じっていた。
「今日は晴れか…」
 男は体を少し動かしたあと、泉に出て顔を洗い、また部屋に戻って片付けを始めた。「さて、今日はどんなお客さんが来るかな…」
 客が来るのを待つ間、男は身嗜みにを整える。奥にしまってある礼服−緑色−を出すと、外で軽く払い、身に纏った。
 このあばら屋で、『毎日』客人を待つ。この男にとっては、それが日課だった。また、その客人は『一期一会』でもあった。奇妙な事に、全て女性でもあった。

 コンコン。
 今日もまた、客人が家の扉を叩いてきた。
「開いてるよ。どうぞ」
 扉が開く。
 その先には、白とも銀ともつかぬ、ゆったりとしたドレスに身を包んだ、やや年齢を重ねた女性の姿があった。首には、銀色の水滴を象った首飾りがある。
「『湖と眠る』ヤーボ様ですね?」
 女性は確認の意味で問うた。
「いかにも。我が家にようこそ、『密使』の方」
 ヤーボは、『密使』を部屋の中央にあるテーブルに案内した。密使が座る椅子の前には、暖めておいて紅茶の香りが立ち込める。
「…さて、私にとっては毎日のようだが、実際には如何ほどの時間がながれていたのかな?」
 ヤーボも確認の問いをかけた。
「一回りと3年ですわ」
「一回りしてしまったのか。どおりで皺が目立つようになってきたかな?」
 女性には明らかに無礼な問いだ。
 対して、『密使』は手で顔を覆いながら、こう返答した。
「でも、あなたの若々しい姿を見る事ができて、嬉しいですわ」
「それはどうも。さて…」
 挨拶は程々に、ヤーボは『密使』たる女性に報告を始めた。
「今の状況だが、ご覧のとおり。特に何も変化はないし、封印の綻びも確認されていない。ここは、いたって平和だ」
「それはよろしゅうございました。学院はあなたのどのような報告でも、お慶びになりますわ」
 二人は魔道師学院から派遣された魔道師だった。
 ヤーボは牧人座の魔道師である。
 時間を超えて大地の封印を監視すべく、この森で生活していた。
 『密使』は古鏡座の魔道師である。
 鏡面転移の術を使い、学院と各地の情報を扱う重要な位置にあった。
「そうだよな。封印が破れても、それはそれで原蛇の塔の連中が喜び勇んでやってくるだろう。…おっと、ここじゃ青龍座の間違いだったかな」
「緑龍ジャミアン・エンバーが封印されたのは、この地でございますからね」
「『白明のメアル』殿はお元気かな?」
「メアル様は隠退なされました。現在は『導きのパウラ』様が通火座の代表を務めておられます」
 ヤーボは紅茶を飲み干すと、深く溜め息を吐きだした。
「今のところ、この龍の封印を破ろうとするものは現われていない。もっとも、出て来たところで、封印が解けるかどうかは分からないがね」
「絶対は有り得ませんわ。だから、学院はもっとも封印の術に長けた貴方様を、このような北方の黒き森にお遣わしになりました」
「そう。『ワールの黒き森』…私も、最初に聞いた時は驚いたよ。なにせ、あの龍をわずか数人で葬り去ったのが、『白銀の戦姫』率いるデイン渓谷戦士団だったとはね。ユラスの黒騎士でさえも手が出せなかったのにな」
「その『白銀の戦姫』ソニア・デインも、先日ガイウス・ラルハース討伐戦にて憤死致しました」
「…俺が寝てる間に、いろいろと起きていたんだな」
 未来に向けた封印が様々と仕掛けられている森の中では、木々の成長に合わせるかのように、時間がゆっくりと進んでいく。ヤーボが森の中で一番寝ている間に、実際には12と1つ、そして3年の月日が流れていたのだ。
「…『地上を離れ、雲海に龍と遊ぶ』」
 『密使』は、予言書の中の一説を思い起こした。
「その『龍』が、ここに封印されている奴なのか?」
「それは分かりません。今はダリンゴースをも狩場としているザルナーンやもしれません。あるいは、タルシス・グルーデ、またあるいはライナール・ランダロイかと」
 いずれも龍の名前である。狂気に満ちた存在であり、冷酷かつ残虐な破壊をもたらすものとして恐れられている。
「どっちにしても、暴れ出さないのを願うのみだね。俺はこの封印のおかげで、ここに来てから黒魔に遭ったことがないからな」

 ヤーボは、空になった2つのカップに、再び熱い紅茶を注いだ。
「ところで、ここに2度目にやってきた『密使』は、あなたが初めてだ。ほとんどの『密使』は、ここのことを忘れるか、また来る機会を失っているらしい。また会う事ができたのは嬉しいのだが、かえって時間の残酷さを思い知らされてしまったな…」
「私は、自分の意思で、ここにもう一度来たのです」
「自分の意思で?」
「ヤーボ様を、お慕い申し上げていました」
 ヤーボには意外に思えた。
 こんな森の奥深く、命を落としかねない場所に、2度も現われた女性の意思。
「最初に『密使』としてここを訪れた時の、ヤーボ様の自由で素朴な心が、忘れられませんでした。そして今、貴方様は、一回りと3年の時を経ても、私の思ったそのままでいらっしゃいます」
 ヤーボは嬉しい反面、困惑した表情を浮かべていた。
「ありがとう。嬉しいけど、俺には重要な任務がある。
あなたにも分かっているはずだ」
「はい。ですから、今夜は一晩だけ、ヤーボ様と過ごしたいのです」
「俺と一晩?おいおい、何年後になるか分からないぞ?そうなったら、『密使』の任務を達成できなくなってしまう」
 『密使』には、龍の封印を確認するという、重要な任務の事はどうでも良くなっていた。
「ヤーボ様…」
 『密使』のドレスが、痩せた魔道師の服を覆う。
 すぐさま、椅子の倒れる音がした。

  * * *

 『2日後』。
 いつものように目覚め、今日もまた、客人が家の扉を叩いてきた。
「開いてるよ。どうぞ」
 扉を開けたのは、まだ初々しい瞳を持った若い女性だった。
 『密使』になりたてであろうか。
「『湖と眠る』ヤーボ様ですね?」
 女性は確認の意味で問うた。
「いかにも」
ヤーボがいつものように応対する。
「母がずっとあなたの事を話しておりました。ヤーボ様、あなたが私のお父様なのですね…」

風は我が子らを運ぶ。
土は我が思いを刻む。



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夢の終わり