黒の海王

人生は海なり。
他の人々もまた同じ海原にいる。
それを忘れるな。


 夏。
 ラルハース領とダリンゴース領を挟むダリンゴース河は、毎年のように戦場になっていた。
 そして、今年も例外ではなかった。
 河のダリンゴース側には、前線であるにもかかわらず、河原近くの草原に1件の洋館が建っていた。
 洋館の回りには、夏の強烈な光と肥沃な土地が育む、色とりどりの綺麗な花が絶えることがない。
 館の女主人はアイトラーといった。
 この館の周辺で花を育て、商人に引き取ってもらうことで生計にしていた。
 それは、ここが前線になる時期でも変わることがなかった。
 そして、今年も例外ではなかった。
   「今夜ね」
 アイトラーが、自分の館に訪れた客人−傭兵というには余りにも場違いな、白銀の戦鎧を身に纏った若い女性−に、確認を投げ掛けた。
 「そう。部隊の仲間、そして連れ添いの翼人座の魔道師からも、そう聞いている」
 緊張する女戦士の発言はぎこちない。
 アイトラーは、気持ちを抑えられるように、優しく笑った。
 「今夜は満月ね」
 対岸の騒ぎを何とも思っていないような態度。
 女戦士は少しあきれたような声を上げた。
 「主、ここは戦場になる。思い出の土地というのは分かるが、早めの避難を−」
 「エステルさん、それでいいの」
 覚悟、に見えたか。
 「私の主人、ラルハースに殺されたのよ」
 エステルと呼ばれた女戦士ははっとした。
 (私と同じだ)
 「私は…両親と土地を失った…」
 アイトラーの優しいまなざしが、エステルの顔に近付いていく。
 「あなたの眼…鋭いのね」
 エステルは見抜かれていたかのように、スッと一歩下がる。
 「あなたは、これからここで何をするというのか?」
 答えは分かっていた。
 そして、瞳を見たまま、しっかりと哀しい声が辺りを響かせた。
 「復讐よ」

* * *

   二人は館の裏手…河に面した側に出た。
 涼しい河の風が、昼間の熱を吹き飛ばしてくれる。
 館の外では、満月が頂に達しようとしている。
 その光を満面に浴び、紫に輝く何百、何千もの蕾が、もうすぐ花開こうとしている。
 「これが…『月の花』?」
 「そう」
 「この花が、あなたの復讐なのか?」
 「花が咲けば、蜜を求めて蝶が起きだしてくるわ。その時こそ、」
 「あなたの復讐が始まる」
 「そして、エステル…あなたの復讐はどこにあるのかしら?」
 対岸の威勢はいよいよ近く強くなっていた。
 対して、館の前の軍勢はなけなしの戦力であったが、せめて気勢だけでも負けじと、部隊の指揮を鼓舞していた。
 部隊はさらに強化されていた。
 しかし、それは場違いな男達だ。
 一方は、燃えるような赤い髪に上半身裸で大弓を持つ男。
 魔道師、と呼ぶにはためらいがある。
 破魔と大地と炎を司る、戦車座の魔道師である。
 もう一方はさらに異様だった。
 全身の装備、そして軍馬に至るまで、漆黒の力を授けられた黒騎士5騎。
 なぜ、北のユラスから、わざわざ敵地を通過して加勢にきたのか。
 エステルはすぐに理由を理解できたが、ヴォルトには全く分からなかった。

 満月がいよいよ光を強めようとする頃。
 館の周辺に植えられていた紫の蕾が、ゆっくりと開いていく。
 花芯から溢れる、甘い、そして少しツンとする香りが、風に乗って辺りを流れていく。
 その香りに刺激されたのか、葉の裏で眠っていた何千もの蝶が、一斉に紫の花を目指して飛び始めた。
 「うっ…」
 エステルの気分が悪くなった。
 口を押さえてうずくまろうとする欲求を、気力で押さえているようだ。
 「蝶はお嫌い?」
 「いや…過去があっただけのこと」
 夜の蝶は次々に紫の花を求めて空を舞う。
 蝶の細い嘴が、花の蜜をひたすらに求める。
 蝶への恐怖を必死に押さえていたエステル。
 なんとか近くの花を見ていた次の瞬間に、彼女は驚愕の光景を目の当たりにした。
 花の蜜を吸っている蝶の揚羽が、見る見るうちに虹色に変化しているのだ。
 月の光に照らされて、美しく、妖しい光を放つ蝶。
 「こ…これは一体…」

 ついに満月は天頂に来た。
 対岸から、進軍を知らせる角笛がこだまする。
 ついで、ラルハース軍の、川を渡る怒声が辺りを震わせた。
 前線に張った、守備の傭兵隊長が、自慢の大剣を空に突き上げた。
 「来るぞ!野郎ども、一人でも多くの敵をやれ!川から一歩も出すんじゃねぇぞ!」
 同時に。
 アイトラーが両腕を大きく、空に振り上げた。
 「これが私の復讐よ!さぁ行ってらっしゃい、私の子供達!」
 何百、何千もの、虹色の蝶の大群が、紫の花を飛び立ち、前方の守備隊を通過し、敵軍迫る川の中目指してひらひら飛び立っていく。
 とても戦とは思えぬ優雅な光景に、エステルは困惑していた。
 「正気か?これがあなたの復讐なのか?この蝶の群れが、敵に一体何をすると?」
 アイトラーは、エステルに優しく答えてくれた。
 「すぐに分かるわ」

 数分後。
 ラルハース軍の進軍の気勢が、あっという間に悲鳴に変わっていった。
 川の中間、今まさにラルハースの軍勢がいる部分、その川の水が、一斉に黒く変色していた。
 兵士たちは次々に溺れ…いや、川とは違う別の波間に沈んでいく。
 その波間は次第に大きく広がっていき、対岸に達しようとする勢いである。
 事の異変に真っ先に築いたのは、前線から少し離れた草原に潜んでいた翼人座の魔道師・カルであった。
 「ま…まさか」
 その波間は、魔道に手を染めた者なら誰でも知っていた。
 「あれは…『深淵』?あの蝶が生み出したというのか?」
 魔道師の予測は正しかった。
 紫の花の蜜を吸った蝶が、その虹色に光る羽で川にたどり着いた時。
 月の光で虹色の鱗粉が黒く変色を起こし、封じられていた(整形されていない)根源の魔力が露出される。
 その微小な魔力が干渉し合い、微小な『深淵』が露呈されていく。
 互いに広がっていき、巨大な暗黒と化した『深淵』に、敵の兵士達が次々と葬られている。
 「………!これは秩序を乱す悪しき物、すぐに止めさせねば!」
 カルは、すぐさま魔力を練って大地の重力から自分を解き放つと、急ぎ館の方に飛んでいった。
 魔力を引き出した反動が、図らずも彼の加速を助けてくれたようだ。
 カルだけではなかった。
 前線で今や遅しと長剣を構えている、傭兵ヴォルトも然り。
 剣を構えている背後から、無数の蝶が飛んでいく。
 その光景に、ヴォルトは突き動かされるものを感じた。
 「そうだ…こいつだ!俺を育ててくれた隊長のジーマは、この蝶で殺された!」
 傭兵ならば、死に場所は戦場と決まっている。
 だが、隊長は、あの怪しげな蝶で、傭兵の本分を果たせずに、惨めな終末を迎えた。
 ヴォルトが後ろを振り向く。
 月明りに照らされて、アイトラーとエステルの両人が、虹色の蝶の翔びざまを見守っていた。
 「そうだったのか!あの女こそが、隊長の仇!」
 もはや前線どころではない。
 怒りに震える傭兵は、仇目指して突進する。
 「女!その蝶を止めろ」
 花の園に絶叫が轟く。
 先に近付いたのは、ヴォルトの方だった。
 目の前に向かってくる虹色の蝶を、足下に生えている紫の花を、これでもかという程に長剣と足で潰してきた。
 長剣を構えて突進体制になり、一撃で仕留める腹積もりだった。
 だが。
 「お前!敵に背中を向けるのか?」
 その正面に、白銀の全身鎧で武装したエステルが立ちはだかる。
 「そこをどけ!今の俺の敵は目の前だ!」
 ヴォルトの突撃が襲いかかる。
 若い娘には不釣り合いな鎧で身動きが取りにくいエステルだったが、その鎧と精神力が幸いして、道を開けることを許さなかった。
 がきん。
 がきん。
 傭兵と戦姫の激しい競り合い。
 「俺の恩人はあの蝶で殺された!」
 「私はあの蝶で土地も奪われたわ!」
 傭兵の猛撃を戦姫は気力で、戦姫の渾身を傭兵は巧みな戦術で、それぞれ弾き返している。
 勝負は互角である。
 「なら、なぜ邪魔をする?」
 「必要だから」
 「傭兵として、戦場で死ぬ名誉も与えられず、蝶一匹であの世行き?あの女のせいで、傭兵の誇りは丸潰れだ!俺はそれが許せない!」
 「これがあれば、ラルハースへの復讐ができる!だからユラスの黒騎士も来たのだ」
 互いの毛髪が切れ、月の光に激しく躍る。
 そこでも、紫の花の蜜を吸って、『深淵』の魔力を蓄えた虹色の蝶は、何も知らずに飛び立っている。

 アイトラーの右前方で、ヴォルトとエステルが命を削っている途中。
 彼女の左前方には、カルが急ぎ飛んで来た。
 「アイトラーさん!」
 慌てふためくカルの声だったが、アイトラーは微動だにしない。
 自分の復讐劇を見て悦に入っている表情そのもの。
 (普通の方法では駄目か)
 だとしたら、多少荒いが、あれを使う他ない。
 カルの右腕が、白濁した両目を覆う白面をスッとなぞる。
 両目に力が入った瞬間、アイトラーをじっと睨み付けた。
 「きゃっ」
 気合いの入った翼人座の凶眼が放射された。
 アイトラーの足に血の線が流れる。
 魔力の反動をものともせず、カルはアイトラーを止めに、再び空を駆け始めた。
 「アイトラーさん、止めるんだ!こんな秩序を乱す存在を使った復讐に、得られるものは何もない!」
 次の瞬間。
 カルは背後から矢の一撃を受けた。
 ただの矢ではない。
 魔力を帯びた存在に強烈な効果をもたらす、黄金に燃える破魔矢だった。
 破魔矢の命中した背中が、鮮血を糧にして黄金に燃え上がる。
 翼人座の魔法を使う証である白い法衣が、一瞬にして赤い金に変わる。
 白い目を覆っていた仮面も、顔から外れると同時に塵になった。
 この破魔矢を使える者は一人しかいない。
 「あぁぁぁー」
 痛烈な雄叫びを上げ、後ろ向きに射手を睨み付ける…間違いなく、戦車座の魔道師。
 「は、破魔の…なぜだー!?」
 睨まれた方は至って冷静だった。
 「学院の指示だ」
 「!」
 「この館は均衡を保つために有効と判断されたのだ」
 戦車座の魔道師には、『館とその主に危害をもたらす者を排除せよ』との指令が出されていた。
 その指示に従ったまでの事だった。
 破魔矢は、魔道師には一撃で致命傷に至る威力となる。
 体の至る所から血が吹き出、即座に真っ赤に燃え上がる。
 もう学院も何もない。
 あの女を止めなければ。
 瀕死のカルが、懐から短剣を抜く。
 そして、残された力を全て使って、渾身の一撃をアイトラーに食らわした。
 ばちーん。
 短剣に帯びられた白と金の魔力が二人を一瞬にして弾き飛ばす。
 男と女の強烈な悲鳴が辺りに響く。
 対岸の悲鳴に負けないように。
 アイトラーの悲鳴を聞いたヴォルトとエステル。
 ヴォルトはエステルとの対峙を止め、本来の目標に向けて走り出した。
 エステルはアイトラーの横に駆け寄る。
 館の石壁に打ち付けられ、全身血まみれの、息も絶え絶えの姿が横たわる。
 「アイトラーさん!しっかりして!」
 エステルがアイトラーの肩を抱き、気付けに何度も肩を揺らす。
 「どう…私の復讐」
 「…凄い」
 「でも、あなたの復讐はまだ終わらないわね。だから…次は、あなたが育ててね…」
 「はい。必ず」
 アイトラーの空ろの瞳が、白銀の満月を写す。
 「あなた…私の為に命を懸けてかばってくれた人…今行くわ…」
 敵軍が放った火矢が、川岸の草原を焦がし始めていた。
 白銀の月光と、大地の赤に染められて、虹色の蝶が今もなお、美しく、妖しく飛び続けている。

 やがて、勝利の鬨の声と共に、朝が来た。

* * *

   今回も、ラルハースの軍勢は、ダリンゴース河を越える事ができなかった。
 守備の兵士と傭兵たちは、国を守った英雄として首都フィレアに凱旋を果たした。
 そして、紫の花は、朝の訪れと共に、陽光に映える白い花となって、力を養う眠りにつく。

 翌年の、満月の夏まで。

人生は海なり。
他の人々もまた同じ海原にいる。
それを忘れるな。


*1 この話は、7/15のTOKYO深淵KONで、私がマスターを務めたプレイ結果を元に書き起こしました。あの時のプレイヤーの皆様、本当にありがとうございました。

*2 魔道師学院の決定については、『白の八弦琴』で語られています。こちらもご覧下さい。

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夢の終わり